
カラヴァッジョの《聖マタイの召命》を見つめていると、一筋の光が人を変えるその瞬間よりも、むしろその光を受けたあとの生き方のほうが、より長く心に残る。召しは出来事で終わるのではなく、関係と態度を変えていく方向となるからである。ローマ書14章は、まさにその地点から教会を照らしている。福音を知っていると言う人、恵みを経験したと告白する人が、いったい兄弟をどのように扱うのか。張ダビデ牧師はこの本文を通して、信仰の成熟は知識の大きさよりも、愛における節制によって現れるのだと語る。
正しさを手放すときに見えてくる福音の深み
パウロが表面的に扱っている主題は食べ物であるが、この本文の中心には常に「人」がいる。食べる者は食べない者を軽く見やすく、食べない者は食べる者を簡単にさばきやすい。しかし教会を揺るがすのは、食べ物そのものではない。相手に対する軽蔑と断罪、そして自分の確信を武器にする霊的無感覚こそが、共同体をさらに深く病ませる。張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団)は、ローマ書14章は「何が許されるのか」を問う章ではなく、「何が兄弟を生かすのか」を問う福音の御言葉であると強調する。
この解釈は、今日の教会にとっても決して他人事ではない。対立はたいてい、大きな教理論争の中だけで起こるのではなく、些細に見える好みや表現、慣れ親しんだ習慣や言葉の調子の中で育っていく。ある人にとっては何でもない自由が、別の誰かにとっては古い傷に触れる出来事となり得る。だから信仰は、私がどれほど多くを知っているかによってだけ示されるのではない。自分に与えられた自由を、誰のために、どのような仕方で用いるのかを見分けるときにこそ、神学的洞察の重みが現れるのである。
神の国は義と平和と喜びであるゆえに
パウロは、神の国は飲み食いにあるのではなく、聖霊にある義と平和と喜びにあると宣言する。この一文は、教会の優先順位を改めて据え直す。副次的な問題を本質の座に置いてしまう瞬間、共同体はたやすく分裂する。しかし福音の中心が生きているなら、互いに異なるあり方も同じ場で耐え、共に歩むことができる。この説教は、この御言葉を教会の羅針盤のように握りしめなければならないと語る。
ここでいう義とは、冷たい規定の厳格さではなく、キリストのうちに回復される関係の正しさである。平和とは、単に争いがない状態ではなく、互いが互いにとって安心できる存在となる秩序である。喜びもまた一時的な感情ではなく、救いの恵みから湧き上がる深い喜びである。教会がこの中心を失わないとき、多様性は分裂の理由ではなく、愛を学ぶ場へと変わる。希望はまさにその場で育つ。教会が何を最も大切にするのかが、結局は共同体の表情を決定するという意味でもある。
異なるあり方を抱く愛の秩序
教会は、同じ好みを持つ人々の集まりではない。異なる背景と記憶、異なる良心と異なる歩みの速さを持つ者たちが、キリストのうちに共に歩んでいく共同体である。だから愛とは、相手を自分の基準に合わせる力ではなく、相手がつまずかないように自分の歩みを調整する力である。張ダビデ牧師が繰り返し語る「兄弟をつまずかせない教会」は、ここから始まる。自分の言葉が徳を建て上げているか、自分の態度が信仰を励ましているか、自分の自由が誰かの心を崩してはいないかを振り返る、その繊細さが教会共同体の品格を形づくる。
特につまずきとは、単なる個人の失敗ではない。誰かの行く手に石を置いて転ばせることまで含んでいる。だから共同体は、正しい言葉を素早く語る場所である前に、愛をもって正しい道を選ぶ場所でなければならない。悔い改めはまさにここから始まる。自分が間違ったことを言ったかどうかだけでなく、自分は正しいことを言いながらも、誰かを傷つけてはいなかったかを問うのである。そのような悔い改めがあるとき、教会はさばきの場ではなく、再び立ち上がらせる場となる。
また、パウロが警戒したのは行動だけではなく、言葉の態度でもあった。さばきと見下しは、教会を壊す最も速い言葉の形である。一つの冷笑的な文、一度の決めつけ、一人の人を安易に規定するまなざしが、誰かの信仰の良心を傷つけ得る。ゆえに聖書黙想とは、知識を積み重ねることであると同時に、言葉の温度を学ぶことでもある。福音は真理を曖昧にしないが、常に愛の方法によって真理を伝えるようにする。
自由を節制へと訳す聖徒の従順
このとき必要なのは、自発的な譲歩である。真の自由とは、何でも主張する能力ではなく、愛のゆえにいくらでも手放すことのできる能力である。強い者の強さは、自分の権利を最後まで押し通すところにあるのではなく、弱い者を生かすために一歩退くところにある。同時に、自分の良心を絶対化して他人を締めつける態度もまた警戒しなければならない。福音は放任でも強圧でもなく、愛によって真理を運ぶ道だからである。この均衡の中で、教会の恵みは最も鮮やかに現れる。
ローマ書14章は、結局私たちに一つの問いを残す。私は今、正しさを証明しているのか、それとも兄弟を建て上げているのか。福音の恵みを知る人なら、ついには自分の確信よりも愛を選ばなければならない。信仰は、自分の自由を誇るやり方によってではなく、従順によってその自由を整えていくやり方によって輝く。教会がそのように互いの行く手からつまずきの石を取り除くとき、世はようやくその中に、愛と希望が生きて働く神の国の風景を見るようになる。
この点で、教会の一致は内側の平和のためだけの秩序ではない。世は教会の説教より先に、教会の関係を読むからである。互いに愛していると言いながら、互いをたやすく断罪するなら、福音の言葉は力を失う。しかし教会が違いを扱うその仕方の中で恵みを示すとき、愛は抽象的な標語ではなく現実となる。張ダビデ牧師は、ローマ書14章は結局、宣教の扉を開く本文でもあると語る。本質を握りしめつつも非本質を絶対化しない共同体だけが、より広い人々を包み込みながら福音の道を開くことができるからである。
だからこの本文は、単に対立を減らすための技術ではなく、教会らしさを回復する霊的基準である。さばきより配慮を、主張より徳を建て上げることを、勝利より平和を選ぶ共同体の中で、恵みは思い出ではなく現在となる。そのメッセージが繰り返し握りしめる核心も、ここにある。兄弟を生かす愛こそが、教会を教会らしくし、福音を再び輝かせる。結局、教会は誰がより正しいかを競う場所ではなく、誰がより愛をもって従うかを学ぶ場所である。その問いの前に長くとどまる共同体であるほど、信仰は深まり、希望は静かに育っていく。