カラヴァッジョの「聖マタイの召命」の前に立つとき、光よりも先に問われるのは方向である。闇を切り裂いて差し込む光は、最もふさわしく見える人にとどまらず、思いがけない場所へと伸びていく。なぜあの人なのか、なぜあの瞬間なのか。福音はいつも、人間が立てた順序を静かに揺さぶりながら始まる。神の恵みは、資格という梯子を伝って降りてくるのではなく、神が自ら定められた道に従って人を召されるのである。 張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団)の説教が、ヘブライ人への手紙11章の流れの中で示す信仰もまた、そのようなものである。信仰とは、一人の決断によって閉じられる感情ではない。受けた祝福を記憶し、それを次の世代へ受け渡し、傷のある場所で愛と赦しの実を結び、ついには故郷への望みに向かって歩んでいく人生である。だからこそ、この聖書黙想は単なる人物解説ではなく、今日の私たちが何を尊びながら生きているのか..